ドイツ切手部会報第78号(平成3年12月)故牧世話人の記事より抜粋です。
1945年5月における米英ソの軍隊の最終停止線は、後の東西分割の境界線とは異なったものである。後のソ連地区に米英両軍が約2ヶ月暫定占領している。
前ページ地図参照
暫定占領地区に含まれ、後にソ連区となったのは、英軍占領のメックレンブルク・フォポンメルンの一部(英軍占領)、米軍占領のザクセン・アンハルトの大部分、チューリンゲンの全部、ザクセンの一部である。
何故こんなことになったか。
1945年2月のヤルタ会談の頃、米英軍はいまだにライン河に達していないのに対し、ソ連軍は東プロイセンの大半を押さえ、元のドイツとポーランドとの国境線近くまで軍を進めていた。しかも一部はオーデル河の線に達しベルリンへは90キロというところに迫っていたのである。
この当時、南ドイツのバイエルン方面には堅固な地下要塞が築かれていて、ヒトラーとドイツ軍はそこに立てこもるのではないかという情報もあった。ベルリンはソ連軍に委ね英軍は北海沿いに、米軍は南西部へという取り決めが行われたのである。
ところがソ連軍の進撃はオーデル河に達したところで停止した。一つはポーランド、東プロイセンに取り残されたドイツ軍を掃討すること、もう一つは伸び切った戦線を整理し補給線を確保してベルリン進撃の準備をするためであった。
一方西部戦線ではライン河を渡るまでは時間がかかったが、一旦渡河してしまったあとは進撃の速度は急上昇し、またたく間にエルベ河に達し、ベルリンへの進撃も可能な状態になってしまった。英首相チャーチルは元来がソ連嫌いだったこともあり、戦後処理を考えれば、ベルリン攻略に参加すべきだと主張した。然し連合軍最高司令官のアイゼンハゥアーは、南ドイツの攻略が必要なことと、ベルリン攻撃に対する補給の困難を理由としてチャーチルの提案に反対した、そしてその結果がエルベ河・ムルデ河の線での停止、その余力でチェコ西部、オーストリア北部への進撃となったのである。
ところで何故こんなことにこだわるのか。ことの起こりはこうである。
ミッヘルカタログの中程にLokalausgaben1945-1948というところがある。一見してむずかしそうな説明がついている。切手の評価も随分と高い。最初のうちは「関係ない」と思って読みもしなかった。ところが何時の間にか少しばかりこの辺のものが手に入って来た。
一方ここで目についたのはヒトラー切手の加刷である。一寸面白そうだなと思って数えてみると随分ある。ヒトラー切手は敗戦で使用禁止になったのだが・・・こんなものは敗戦後のドサクサでソ連地区で作られたものかなと思っていたのだが、いろいろ調べているうちに、どうも必ずしもそうでないらしいことに気がついた。これは一体どういうことであるか?ソ連地区に英米軍がいたというのはどの範囲なのか、そしてその時の郵便事情とはどんなものであったか、興味は限りなくふくれ上がって来た。
そこで一番面白そうなヒトラーの加刷をリストアップしてみた。
<中略 ミッヘルカタログ参照>
この他にソ連占領地区に分類されているがBundesland Sachsenとしてザクセン黒塗りというのがある。これは米軍が暫定占領したケムニッツ、ライプチヒおよびソ連軍が占領したドレスデンの三地区にまたがって発行されたものである。
<中略>
ミッヘル専門版にはMache(作り物、絵空事)Fälschung(偽造、変造)とされているもの、不発行で疑わしいものなども記載されている。それでもカタログにはチャンと評価が与えられているところをみるとそれなりの郵趣的な価値はあるようだ。つまり敗戦後のドイツを物語るマテリアルとしての意味は充分あるものなのだろう。
前世話人 T.K 寄稿記事より時系列でのまとめ
| 1945年4月12日〜6月24日 | アメリカ軍の占領下、郵便機能は全く麻痺 |
| 1945年6月25日〜7月3日 | 米軍の統制下で郵便の再開、ただし切手なし、料金収納印で対応 |
| 1945年7月3日〜7月17日 | 米軍が撤退し、ソ連軍が進駐 郵便機能が再度停止 |
| 1945年7月17日〜10月1日 | ソ連軍統制下で郵便活動再開 料金収納印使用 |
| 1945年10月1日〜10月31日 | ソ連軍占領下での正刷切手が発行、使用 |